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エッセイ

リアルユートピア〜無限の物語

木村太陽の作品の多くは、日常的にどこにでもあるもの-1リットル牛乳パック、黒いゴミ袋、藤の洗濯かごなど、この国で生活すれば誰しも必ず目にするものを用いている。さらには、調味料、菓子、カレー、トマト缶、肉といったように、日常的に人間に消費され、排泄されている食料さえも作品に取り込んでいる。例えば、《Video as Drawing》では、カレーで洗顔をする模様が繰り返し映し出され、《日本人について》では、マヨネーズ、ケチャプ、ソースといったものが混ざり合っていく様が目の前に広がり、鑑賞者は一種の嫌悪感、嘔吐感を覚えるのを否定できないだろう。この身体的嫌悪や違和感は、例えば、《Friction/トイレはどこですか》が放つ時計の針が重なり触れ合う音や、《ブラックホール》が放出する、一度に多数のイヤホンから流れる異なるラジオ局の音などを耳にするときに感じる不快感と同種のものである。

これらの作品を通して感じられる身体的な違和感や不快感は、現代社会のなかで自らの身体を制度化し、家畜化する人間についての考察へつながり、さらには個人と群衆の複雑な関係性をも示唆している。《We know you know we know your pleasure you never know》は、一体一体木村の手によって作られた約600体のハトが展示室全体に並べられ、そのハトの上を鑑賞者は、フレームが組まれ底板のみ取り付けられた箱や、その上に傘が置かれた箱を滑らせるという作品である.床に並べられたハトの頭部がキャスターであることから、この箱は押される力に合わせてハトの集団の上を滑っていく。時に鑑賞者は、箱を手元に引き寄せるために、床に並ぶハトをかき分けなければならない。頭部がキャスターで、ボディが薄暗いグレーで塗られたハトの上に箱を転がすという行為自体不気味であるが、誰もが必要としながら忘れ、時に置き去りにし、捨てられる存在である傘や、その下の床に不規則に並ぷハト、鑑賞者という人間など、これらの多様な要素は、個人と群衆との関係、そして、人間の意識や無意識について物語る。

木村は自身の身体的な違和感や不気味さ、日常的に感じる非日常的な経験を自分のドローイング帳にもとどめている。例えば、自分のズボンのポケットがドアノブに引っかかってしまった体験などを記録しているのである。同時に、自分の空想やふとした想像を措き綴っている。このドローイング帳に綴られる世界や木村の作品は、どんなにささいで、小さな経験や感覚でも、そこに別の世界、人間の本当の姿、さらには、もうひとつの本当の現実があるかもしれないということを静かに語りかける。そして、木村は、自身の体験や空想を措きとどめ、制作することで人間の本質や現実感を確認している。

エッセイ

MOTアニュアル2000、低温火傷

4.コミュニケーションの回路

いまの時代のあり方って、無意識の方にネガティヴな現実が追いやられていって、かえってすごく不健全な気がする。人の気持ちがほかの他者とか現実から閉じられる方向にいきやすい時代なんじゃないかなって。―木村太陽

木村太陽のドローインク帳には、日記のように描きつづられたスケッチやメモが、びっしりと書き込まれている。それらは、木村が日常に見出した様々な感情や感覚を克明に作品プランやイメージに変換したものである。実際に作品化されるのはそのうちのほんの一部だが、それらは奇妙なブラックユーモアとともに、見る者に独特の生理的な感覚を呼び起こす。

出品作の-つ《ブラックホール》(1996年)は、可愛らしい白クマのぬいぐるみにびっしりと黒いイヤフォンスピーカーがついたもの。それぞれが異なる局にチューニングされた17台のラジオに接続されているため、音楽や声が重なりあってガーガーとノイズになって漏れ聞こえてくる。人の気持ちを和らげるはずのぬいぐるみと、交信不能で不快なノイズの組み合わせが、コミュニケーション不全の状況をユーモアまじりに体現する。

電池で動くおもちやのボール9個が枠のなかにはめられ、もぞもぞと一緒になって不器用に動き回る《無題》(1997年)は、集団心理に身体を縛られて思うように動けない個人の滑稽さを示すかのようであったし、ごみ袋からだらしなく片足を出した人形が、天井からつり下げられたまま、ゆさゆさと小刻みにふるえる《タイトル未定》(1997年)などは、どこかで見覚えのあるような、奇妙なリアリティを感じさせる。いずれの作品も木村の目を通して日常の細々とした事象のなかに見出された違和感、居心地の悪さ、不気味さなどを直接に取り込んだものである。自分自身、身体的にも精神的にも弱くコンプレックスが強かったという木村は、ささいなことでも作品を介して提示することによって他者や社会との接点となることを見出したことで、解き放たれたと明かす。

作品作りは、まず自分の現実感を確認する作業であり、それを発表することを介して他者とのコミュニケーションの回路を持つことで、作家自身が、まず生かされている。作れば作るほどわからなくなることも増えると洩らす木村だが、そのわからなさというリアリティに共感する観客もまた少なくない。美術が現状解決の答えを出す必要はない。制作の過程は、自らの生理的な感覚を省み、客観的にとらえ直す機会を彼に提供する。そうして-つ-つ確かめずにはおれない彼の切実さをも、見る者は共有するのである。木村自身も認めるように、そこではユーモアが有益に機能する。何だか変だと感じるときに、とりあえず状況を笑えるかどうかのゆとりが、生死をわけることもあるのだ。

木村の作品は、日常品の再利用であったり、廉価な素材であることがほとんどだ。そして完壁すぎる仕上げをきらい、わざと適度に無造作な状態にすべてを留める。まるで美しさのもつ力にとりこまれることを頑なに拒むことで、自己の抱えるぎりぎりの切実さを商品化してしまうことを回避しようとしているようだ。「美術」になってしまった瞬間に作品から危なさや得体の知れなさが消えてしまう。木村が生々しい生理感覚に訴えることで、観客との距離を縮めようとするとき、美しいこと、完成していること、作品然としていることは、有益なコミュニケーションの妨げになってしまうのだ。表面的な笑顔やその場しのぎの他愛のない会話が、むしろ人と人との距離を遠ざけているかのごとく、嘘臭く思えるときがあるように。町中で見かける得体の知れないものと自分の作品を限りなく等価にすることで、木村はより自分の求めるリアリティに近づこうとしている。

自分をめぐる社会を壊すことも、そこから逃げだすこともできないと思うと、そこに生きそこにあるものを見つめることが辛くなる。木村のドローインク帳を埋めているのと同質のつぶやきは、多くの人がどこかにしまいこんでいる日記やノートのそこかしこにあふれているに違いない。木村は、そうしたつぶやきを作品に変換し、公に発表し、他者と共有するという術、すなわち美術という実践、を持つことによって、目を開き前に進むことができるのだ。